フェニックスの日記(まとめて一括表示 / 3ページ目) - 『闘病ログ』 ~ 病気に関するブログ集めました ~

5ヶ月前に更新 / 68件
フェニックスの日記

「フェニックスの日記」のカバー画像

年齢 / 性別

42歳 / 男性

闘病期間

0歳~

病名

両大血管右室始起症
肺動脈狭窄
大血管転位
発作性上室性頻拍
心房粗細動
洞機能不全症群
蛋白漏出性胃腸症

ブログの説明

成人先天性心疾患(両大血管右室起始)で、不惑の歳にフォンタン手術・TCPCコンバージョンを受けたフェニックスの日記です。

ブログのURL

http://ameblo.jp/fenix1976

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TCPC手術から半年

どうも、フェニックスです。

今日から10月ですね。


先週9月25日で、TCPCコンバージョンのフォンタン手術から丸半年が経ちました。手術後は大きなトラブルはなく、順調に仕事にも復帰できたことは、医者や医療関係者のみなさま、妻や両親など家族に大きな感謝です。


今週は仕事が落ち着いていたこともあり、3つの通院がありました。


1つ目はS病院でのペースメーカチェック。こちらは何の問題もありませんでした。


2つ目はJ病院循環器小児科の主治医の診察。8月の診察の際に低いと言わたヘモグロビン(鉄分)、カルシウム、総蛋白はすべて基準値内でした。食事やサプリなどで、特に鉄分を意識した食事を作ってくれた妻のおかげです。


また、BNPは26.2でした。基準値は20.0以下なのですが、個人の推移としてはTCPC手術前は50~90くらいで推移していたので、激減と言っても良いと思います。

※BNP=Brain Natriuretic Peptide:脳性ナトリウム利尿ペプチド、心臓の元気度がわかるホルモンの検査


気になるのは、サチュレーション(酸素飽和度)が94%から上がらないことですが、TPCP手術の際に心房に中核欠損を作ったので、この値くらいでいいのではと主治医に言われました。また、血圧も手術前は上が100~110くらいだったのですが、今は90~100程度です。こちらも問題ないとのことでした。


3つ目の通院は、古いペースメーカ抜去に向けた造影検査でした。J病院でカテーテル室に入って腕からの点滴で造影剤を入れ、抜去予定のペースメーカとリード線の状態を確認していただきました。検査時に以前からお世話になっているT先生とN先生がいらっしゃったので安心して検査を受けられました。


そして、飲酒はまだ早いそうです…


せっかくここまで順調にきたので、今後も健康管理はしっかり続けたいと思います。


それでは、また。
引用元のURL: http://ameblo.jp/fenix1976/entry-12205292595.html

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健康プラザでのリハビリ

どうも、フェニックスです。


TCPC手術後5ヶ月が経ち、心肺機能も体力もだいぶ回復してきたのですが、手術前に比べるとまだ体力が戻りきっていないなと感じることがあります。特に、駅などの階段の昇り降りでは脚が痛くなり、筋力が落ちていることを感じます。暑いこともあり復職後は車通勤をしているので、平日はほとんど歩いていないせいもあると思います。


そこで先日から、市の健康プラザに行き始めました。民間のスポーツジムとほとんど同じ設備のトレーニング器機やプール、スタジオがあるのですが、市立なので利用料が安く、障害者手帳があれば無料で利用できます。


「健康プラザでのリハビリ」の添付画像(1)


今日を含めていままで3回行ったのですが、毎回、脚の筋力をつける器具(上の写真のような器具)を使った筋トレをやり、バイクやクロストレーナ(下の写真のマシン)での運動も30分ずつやっています。
「健康プラザでのリハビリ」の添付画像(2)

「健康プラザでのリハビリ」の添付画像(3)



自分が無理しない範囲の軽い設定でのトレーニングですが、マイペースで汗をかくのは気持ちいいです。これからも週に一度を目安に、健康プラザには通おうと思います。


それでは、また。
引用元のURL: http://ameblo.jp/fenix1976/entry-12192135190.html

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ペースメーカ抜去の宿題

どうも、フェニックスです。

久しぶりのブログ更新です。

リオオリンピックに夢中になって、ブログ更新をさぼっていました(言い訳です…)


8月になり、元々受診していたJ病院の外来に行きました。

J病院ではフェニックスを診て下さっている先生が二人います。一人は循環器小児科で先天性心疾患のベテランの先生。もう一人も循環器小児科で、ペースメーカを含めて不整脈を診ていただいているの先生です。


診察結果は良好でした。

TCPC手術で右心房を切り取った影響で、CTR(心胸郭比)が50%以下になっていたのは驚きでした。サチュレーション(酸素飽和度)が94%前後と手術前よりも低いのですが、もう少し時間が経てば心肺機能が回復するから、特に問題ないとのことです。あと、鉄分、カルシウム、タンパク質が若干不足しているので、食事で補うように言われました。



そして、まだ宿題が残っていました…。手術前まで使っていたペースメーカとリード線の抜去です。


TCPC手術の時に、心房・心室両方をセンシング・ペーシングするペースメーカ(DDD型)に入れ替えました。手術前まで使っていた心房のみをセンシング・ペーシングするペースメーカ(AAI型)は不要になったため抜去の予定だったのですが、リード線が血管からうまく抜けなかったため、本体とリード線は体内に留置したままになっています。正確にいうと、以前のリード線が当たっていた右心房の部位は切り取ったために、リード線は途中で切られた状態で上大静脈内に残っています。


フェニックスのペースメーカとリード線抜去のためには特定の医療機器が必要らしく、それはTCPCをしていただいたS病院には無くJ病院にあるそうです。抜去はJ病院循環器内科のS先生しかできないらしいです。

多忙なS先生のスケジュールに合わせてJ病院に入院することで、循環器小児科の先生と話が進みました。


手術からは回復して無事復職もできたのですが、今年はまだまだ心臓のために時間とパワーを使うことが必要そうです。


それでは、また。 引用元のURL: http://ameblo.jp/fenix1976/entry-12192120913.html

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復職

どうも、フェニックスです。


TCPCフォンタン手術から約3ヶ月、退院してから約2ヶ月経ちました。

順調に回復して日常生活はほぼ問題なくなり、主治医から就労可能の診断ももらい、今週半ばから復職しました。会社で「おかえり」「はじめは無理せずにね」と言ってもらえたのは良かったです。


ただ、暑くなってきたこともあり(一昨日の東京は36℃!)、思った以上に身体が疲れます。


仕事はデスクワークで、会社では気を張っているからか大丈夫なのですが、帰宅して夕食食べるとダルく感じます。退院して自宅に帰った時と似たようなダルさです。

今週は早めに横になりました。


また、ほぼ一日机に向かって座っていると、夕方には胸の傷口やペースメーカを入れた腹部もチクチクします。


ダルさも傷の痛みも、時間をかけて慣れていくしかないですね。

会社に復帰できたのも大きな前進ですし、あせらずに過ごそうと思います。


それでは、また。
引用元のURL: http://ameblo.jp/fenix1976/entry-12178803457.html

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身体障害者手帳が変わった

どうも、フェニックスです。


事情があり、最近身体障害者手帳の再交付申請をしました。


以前の障害者手帳は1歳半のブレロック手術後に交付されたもので、表紙が厚紙で作られた数ページの冊子形状でした。その手帳は数回の引っ越しや度重なる減免申請などで余白ページがなくなり、ついには補充の用紙をセロテープで着けて対応していました。


今回再交付された手帳は、ソフトケースで作られていました。記載内容は変更ありませんが、余白ページがなくなった場合は追加が簡単にできます。

ただ難点としては、財布に入れずらくなりました。今回の変更は、個人的には良し悪しです。


〔写真〕再交付された身体障害者手帳


「身体障害者手帳が変わった 」の添付画像(1)



「身体障害者手帳が変わった 」の添付画像(2)



それでは、また。
引用元のURL: http://ameblo.jp/fenix1976/entry-12169595148.html

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自立のためには自律が必要(社会人スタートの頃)

どうも、フェニックスです。

フェニックスは、就職早々に頻拍で倒れてしまい緊急入院し、暫くの間休職していました。


就職活動は以前書いたとおりですが、いま勤めてる会社から内定をいただいた後の大学4年生の秋に、突然頻拍になりました。いまではフォンタン手術(APC法)後の遠隔期には高い確率で頻拍発作が出ることは広く知られていると思いますが、当時はJ2病院の主治医からはそのような話はありませんでした。

初めて頻拍になった時には息苦しかったものの何が起きているのか分からず、まずは大学の保健室に行きました。脈拍数が150回/分以上あることを確認した保健婦から、すぐに病院に行くように言われました。1時間くらいかけて大学からJ2病院に電車とタクシーで行くと、すぐに緊急外来の部屋に連れられていきました。まずは抗不整脈剤の点滴を打ったのですが頻拍は治まらず、結局電気ショックが行われ、一泊入院しました。

それから約半年後に就職をしたのですが、頻拍は出続けました。病名としては、PSVT(発作性上室性頻拍)やAF(心房粗動)、af(心房細動)です。

就職前後は、大学の卒業旅行や一人暮らしのための引っ越し、3月末からの新人研修(2週間ビジネスホテルに泊まり込み)があり、無理をしてしまったのも頻拍が多発した原因のひとつだと思います。


社会人として自立するために、自律が必要です。

フェニックスの社会人のスタートは、やりたいことを我慢し、頻拍が出ないように自分をコントロールすることが最優先でした。お酒を飲まないこと、遊びに行くのをある程度抑えること、観たいテレビを我慢して早めに寝て睡眠を充分とることなどを行い、健康管理をしました。そして徐々に、頻拍になる回数も減っていきました。

結局試用期間はずっと休職していたのですが、それでも本採用にしてくれた会社と、それをサポートしてくれた父には感謝しています。

それでは、また。 引用元のURL: http://ameblo.jp/fenix1976/entry-12162201095.html

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内部障碍雇用の理解(就職活動)

どうも、フェニックスです。
今年は6月1日に面接が解禁になりましたが、今日はフェニックスの就職活動の話をしたいと思います。

フェニックスが就職したのは1998年4月でした。

就職活動は、1996年冬から97年春に行いました。就職氷河期や超氷河期という言葉もありながら、この時期は「失われた20年」の中でも比較的景気がいい期間でした。しかし、97年4月には消費税増税(3%→5%)になり、それがきっかけで景気が悪くなり、97年11月には拓銀と山一証券が破綻し、改善しつつあった景気が後退します。あと一年就職活動が遅かったら、ぜんぜん別な人生になっていたかもしれません。

「内部障碍雇用の理解(就職活動)」の添付画像(1)


フェニックスが就職を意識し始めたのは、大学3年(1996年)の夏頃でした。大学の就職課に行ったり、ハローワークに行き、障碍者雇用についても調べました。いまのようにインターネット上の情報が充実していなかったので、電話や訪問での問い合わせがメインでした。

調べた結果、障碍者雇用も選抜面接は健常者と同様のプロセスという会社が多かったです。96年の年末には、年賀状と一緒に会社への資料請求ハガキをたくさん書きました。会社案内を貰い、会社説明会に行き、筆記試験・面接に進みます。面接では、一次面接から心臓病のことは伝えるようにしました。

心臓病の事を聞いて、明らかに顔つきが変わる面接官もいました。特に態度の変化がひどかったR社の面談は、今でも忘れもしません。
一方で、いまフェニックスが勤めている会社は、通常の面接プロセスに加えて途中で産業医との面接も設けていただき、心臓病の事をよく理解したうえで内定を出してくれました。


就職活動は、景気状況や経団連の申し合わせなどで20年前とはかなり様子が変わってきています。障碍者雇用も、雇用率が引き上げられたり、特定子会社制度が設けられたりしています。ただ、発達障碍が注目を浴びる一方で、内部障碍の理解が深まっているというニュースはあまり耳にしません。

フェニックスが今できるのは、自分が会社にとって貢献できる幅を広げることです。それを通じて、就職や就業について内部障碍雇用の理解を深められたらいいなと思っています。


それでは、また。 引用元のURL: http://ameblo.jp/fenix1976/entry-12162196895.html

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自分に自信がつく(大学生の頃)

どうも、フェニックスです。
高校時代は特に大きなことがなかったので、今日は大学時代の話を書きたいと思います。

大学生になると、小学校から高校まで続いた集団生活とは縁が遠くなります。担任教師がいて、クラス全員で運動会や遠足、修学旅行に行くということがなくなりました。

心臓が悪いと集団生活はどうしても遅れをとり、それがいじめにもつながり、自分に自信が持ちずらくなります。フェニックスもそうでした。ですので、集団生活から解放されたことは嬉しかったです。


大学では、履修する科目は自分で選びました。1~2年生は一般教養や必修科目があるので、顔を合わせる友人はだいたい同じですが、時間が経つにつれてバイトやサークル活動にはまり、講義では顔を見ない友人も出てきました。

フェニックスは講義はきちんと出ていましたが、大学時代の一番の思い出は学園祭実行委員会です。目玉企画(講演会やコンサート)、参加サークルや部活が使用する教室や机・椅子・備品の割り振り、パンフレット作成と広告集め、学生部長(教授)や学生課職員との話し合いなど、学生自治の機運も残っている中での実行委員会でした。

当時はフォンタン手術後(APC法)で体調もよく、頻拍も出ていませんでした。準備期間の実行委員会会議の後に友人と酒を飲みに行って泥酔したり、夏休みに大学の施設がある谷川岳にドライブにいったり、祭典当日には翌日の準備や警備などでほぼ徹夜したりしたのは、今となってはいい思い出です。


自分たちで何かを決めて実現するという意味で、学園祭実行委員をやった大学時代は、「自分に自信が持てる」ようになった時期でした。

それでは、また。 引用元のURL: http://ameblo.jp/fenix1976/entry-12162192690.html

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APC法フォンタン手術(中学生の頃)

どうも、フェニックスです。

前にも書きましたが、フェニックスは13歳、中学校2年生でフォンタン手術(APC法)を受けました。執刀いただいたJ2病院では、当時、8例目のフォンタン手術だったそうです。

手術にあたって両親は主治医から詳細な説明を受けていたようですが、フェニックスは詳しい説明は受けていませんでした。ただ、自分が心臓が悪い事、そのために手術が必要なことは理解していました。


フォンタン手術が大きさや困難さを理解したのは、手術の後です。

手術後にICU(集中治療室)に一週間くらいいたと思うのですが、後から手術をしてICUに入って来た患者さんが先に一般病棟に戻るのに、なぜ自分はICUに居続けなければいけないかをICUの看護婦さんに聞いた覚えがあります。

入院た手術は27年も前なので記憶はあいまいですが、苦しく、痛く、辛かった記憶はあります。
その一方で、付き添ってくれた伯母がお寿司を差し入れしてくれたり、ある程度回復すると近くのおもちゃ屋にプラモデルを買いに行ったりした、良い思い出もあります。


中学生の理科の授業では、心臓のつくりという項目があります。それを勉強した後に、自分の心臓が健常者とどのように違うのかや、どのような手術を受けたのかということを親が説明してくれて、自分の心臓について他人に伝えられるようになりました。

それでは、また。 引用元のURL: http://ameblo.jp/fenix1976/entry-12162189979.html

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できることは自分でやる教育(小学生の頃)

どうも、フェニックスです。
前回に続き、昔の話です。

フェニックスの親は、心臓が悪いためにできないことは無理をさせない反面、できることは極力自分でやるという教育方針でした。そして、そのために親も大きなサポートをしてくれました。

たとえば、小学生の時の遠足には、父が仕事を休んでついてきてくれました。小学生高学年の時には、近くの渓谷のハイキングコースを歩く遠足があったのですが、歩けるところは自分で歩き、疲れると残りの道は父がおんぶしてくれました。

後から聞いた話では、両親ともに、「無理をさせていないか。もしくは、本当はもっとできることを止めていないか」という振り返りの繰り返しだったとのことです。

当時は厳しく感じることもありましたが、両親の教育のおかげで今は自立して生活できているので、感謝しています。

それでは、また。 引用元のURL: http://ameblo.jp/fenix1976/entry-12162186434.html

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